足利樺崎寺発掘調査に参加して
リポーター/Graphic Designer 三村耕平
1997.10.5
リポートは個人的な記述・表現もあります。

よみがえる中世寺院
足利樺崎寺発掘調査

樺崎寺赤御堂横に立つ杉の大木
はこの寺の盛衰を知っている。

創山八百年の歴史を誇る足利氏創成の氏寺-鑁阿寺。これよりも先き、東北の国々へ向かう玄関口とも言える足利の北西、樺先の地に奥羽・平泉の毛越寺や中尊寺を模した浄土庭園有する寺院がありました。その名は樺先寺、足利氏の館として始まる鑁阿寺とは性格の違うこの寺には多くの歴史の謎と悠久の時のロマンが隠されています。

 平成9年10月5日、日曜日。前夜の強い雨が嘘のように、美しい晴れ間が広がる。

 足利市の北西、宇都宮へ向かう国道293号線は日曜日の午前中とあって、交通量も少なく樺先の八幡山(鳴動山)へ左折する車がこの発掘調査へ参加する人達を乗せていることがすぐに分かる。

 普段は静かな樺先の里がにわかに多くの人でにぎわっていた。午前11時、駆けつけた中央大学教授の峰岸純夫氏のあいさつが始まっている。

 足利市遺跡発掘調査委員の大沢氏がいつもながら楽しそうに発掘結果をひとつひとつ参加者に語りかける。発掘調査員とすれば、苦心して分かった事実を熱心な市民に発表するこのときこそ、少しばかりの優越感と大きな達成感が交差して心が躍るに違いない。

 これは、多宝塔があったと思われる基壇跡。今後も調査を続けないと鑁阿寺のような2層の塔か、1層だったのか、まだ謎だという。

 八幡山のすそのを多宝塔跡よりさらに数十m南にゆくとそこには、長さ30m、奥行き15m位の細長い遺跡が現れる。ここが、明治の初頭まで足利氏の歴代の五輪塔と重臣高氏の供養塔あわせて19基が残されていたという後廟跡(五輪塔覆屋)と推測されている。

 奥行きあたりから山裾が急な斜面になって山頂へ続いているが、手前は東に向けており、わずかな木陰を通して朝日が差し込む。きっと、往時も供養の塔に向かって木漏れ日が落ち、ひらいた東側を向けばそこには浄土をイメージした優雅な池を中心とした日本庭園が見られたに違いない。

 足利市では、ここをさらに調査の上、国や県に向かっても遺跡保存と整備の運動をしてゆくという。ゆくゆくは浄土庭園も復原して市民が憩うことの出来る遺跡公園を計画しているとか。ぜひ市民も大きな力を合わせて古き歴史の遺産を次の世代へ引き継げればよいと思う。

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